公開日 2019年2月6日
更新日 2019年2月28日
- 地域
- 臼杵・南部地域
- 名称
- 烏鷺島(うさいじま)
- 所在
- 備考
- 昭和63年6月調べ
- 説明
- 東九州の海岸線は、岬や入江が複雑に入り組んだ、まるでのこぎりの歯に似たようなリアス式の海岸を形成しています。又小さな島が数多く点在し、海岸部に迫る急峻な丘陵などが相まって、自然の素晴らしい景色を作り出しています。景色だけでなく複雑な海岸線は、自然の良港ともなり、昔から海での生業が盛んな地域となっています。
臼杵は東九州のほぼ中程に位置し、往古より経済、文化の中心地としての役割を担うとともに景勝のの地としても広く知られていました。今はもう、昔の面影が殆ど残っていませんが、内陸部に深く切れ込んだ入江とその中に浮かんでいた七つの島、これらが織り成す海岸風景は格別であったと伝えられています。臼杵の七島とは、丹生島(臼杵城跡)・竹島(現津久見島)・松島・森島(現大橋寺付近)・磯島(現十六天神)・産ヶ島(新地交差点より北東五十メートル付近)・烏鷺島(現光蓮寺付近)の七つの島を指しています。
これらの島の中でも烏鷺島という名は珍しいかもしれません。古い記録によると、この島にはその名が示すとおり、昔多くの「烏」と「鷺」とがともに飛来して巣を作っていたとあります。そこでその島の名前にちなんで「うさぎ」島と称するようになったと・・・。更にその名が訛って「うさい」島になったとも記されています。
普通「うさぎ島」という言葉だけを聞くと、この島にはたくさんのうさぎが住んでいたからこのような名が付けられたのではと思いがちですが、実際には「うさぎはうさぎ」でも鳥類の烏と鷺にちなんで付けられたようです。
また、この島はただ単に景勝の地であったばかりでなく、臼杵における中世史の一コマを語る上で大変に意味のある島の一つです。「大友興廃記」によると天正十四年(一五八六)、島津家久を大将とする島津軍が丹生島城を攻め落とすため臼杵に侵攻し、平清水口の烏鷺島まで詰め寄せてきて、岩の陰や繁み、或いは柳の大木に隠れて城の様子をうかがっていたところ、城にこもっていた大友宗麟が先年手に入れたばかりの「国崩(大砲)」を持ち出し武宮武蔵守に命じて打たせました。玉は島の近くにあった柳の大木に当たり、これが倒れて島津軍は多くの死傷者を出したと記されています。歴史を語る島はすでにありませんが、近くに現存する松島がわずかに往時の島影を偲ばせてくれます。