公開日 2019年2月6日
更新日 2019年2月28日
- 地域
- 下南地域
- 名称
- 水ヶ城(みずがじょう)
- 所在
- 備考
- 昭和54年10月調べ
- 説明
- 旧市内から北西の方向を眺めると門前から末広方面へと南北に連なる山の尾根が見渡せます。この尾根の北方、末広方面へ下がる尾根上にヒトコブラクダのこぶのように盛り上がった場所が一ヶ所あります。この高まりが、市民にその名も知られた水ヶ城です。
この城へ通じる道は数本ありましたが、今ではそのほとんどが荒れ、雑草などが深く生い茂り、通行困難な状態となっています。その中でも僅かに、末広の皿山付近から通じている山道を利用すれば山頂まで登ることは可能です。急斜面を四十分ほど登りつめると城の搦手(からめて=城の裏門)に相当する位置に達します。
この城は、天然の要害を巧みに利用して築いた中世の山城です。山頂部分に建物などは残っていませんが、城の北と南側には尾根づたいに敵が侵入してくるのを防ぐため、尾根を分断するような形で大きな空堀が掘られています。南北の堀とも上幅約十メートル、深さ約四メートルをはかる山城の堀としては大きなものです。そのほか、この要害の城を更に堅固なものとするため、周りの斜面にはいたるところに縦堀を掘り、防備を固めています。
水ヶ城は、鎌倉時代から室町時代にかけて臼杵地方に住んでいた臼杵氏が戦時の緊急避難、或いは防御のために築いた城といわれているものです。この時代、豪族(武士)の多くが山城では生活をせず、麓の平地や台地に館を構え生活していたことを思えば、臼杵氏も例外でなく、麓の江無田台・戸室台に館を構え平素は生活していたことがうかがえます。
山頂に立ち、はるか麓の家並みを眺めながら、歴史を数百年さかのぼり、在りし日の臼杵の町の姿に思いをしのばせてみることも楽しいことかと思います。