公開日 2019年2月6日
更新日 2019年2月28日
- 地域
- 下南地域
- 名称
- 禹稷合祀の壇(うしょくごうしのだん)
- 所在
- 臼杵市大字家野
- 備考
- 昭和58年4月調べ
- 説明
- 市内には数多くの文化財がありますが、なかでも特に珍しいものとして禹稷合祀の壇(通称、禹王塔)と呼ばれている史跡があります。家野台地北東の先端、ちょうど県立臼杵商業高等学校から北東へ百メートルばかり行った松ヶ崎という所に位置しています。
この禹稷合祀の壇というのは、中国の神話伝説における治水の神としての「禹」と農業の神としての「稷」の故事にちなんで、治水の神と農業の神との二神を一緒にお祀りしている土で盛った壇のことをさしています。壇は、二段からなり、一段目は北側を除く三方を凝灰岩の切石で積み、盛土を行い平坦にした一辺8.3メートルの方形の壇で、更にその中央部に一辺1.8メートル、高さ約1メートルの盛土を行い正方形の二段目を築いています。また二段目の四面(東西南北)中央部には石段が設けられ、二段目の中央で祭祀が行われていました。
この壇がつくられたのは、今から二百六十三年前の元文五年(一七四〇)九月十五日です。当時は、毎年のようにかんばつや洪水、疫病の流行、更にいなごなどの被害を受け、臼杵領内の農作物のできが悪く、不作続きによる農民の窮乏がひどかったため、困り果てた藩が、中国の故事にちなみ治水の神の「禹」と農業の神「稷」の二神をまつり、悩ませ続けられている自然災害を鎮める目的からつくったものです。また壇上東端には、藩の学者荘田子謙が発議し、赤羽の源君岳が書いた禹稷合祀の由来の碑が建てられています。
この合祀の祭礼は明治四年(一八七一年)に廃されましたが、昭和58年頃までに復活し、毎年九月十五日には五穀豊穣、家内安全等を願って下南地区の人々による奉納相撲がこの地で開催されていたそうです。