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的場山台場

公開日 2019年2月7日

更新日 2019年2月28日

的場山台場の写真
地域
海辺地域
名称
的場山台場(まとばやまだいば)
所在
臼杵市大字諏訪津留
備考
平成4年2月調べ
説明
豊後水道に面した臼杵は、古くから海とかかわりながら歴史を刻んできました。海は臼杵の町に様々な国内外の文化や富をもたらす道であったわけですが、時には激しくゆれる時代の波を打ち付けることもあったのです。
江戸時代末期に次々と渡来し、日本に開国を要求する外国船の脅威は、改めて日本人に海防という問題を再考させるものでもありました。そして、海に面した一地方の小藩である臼杵藩もまた、例外ではなかったのです。
アメリカの黒船が来航した嘉永六年(1853)から、臼杵藩では藩士の全てに対し、日本と臼杵の外交、海岸防衛についての意見書を出すよう命じています。藩では安政二年(1855)に提出された川崎重房の意見書が臼杵の海防を論じたものの中で最も具体的なものであるとし、それによって臼杵の海岸線に文久三年(1863)から六ヶ所の台場(砲台)を築きました。
津留地区の背後にある的場山台場も、このときに築かれたものの一つです。現在でも的ヶ浜海水浴場の真上には、指揮所跡と思われる高台と、山を切り崩して平らにした砲座、砲座の前面に築かれた長さ約20mの土塁といった遺構が海を向いて残されています。
この場所の真向かいには将ぎ頭(しょうぎがしら)台場(現、東中学校)や本丸台場(臼杵城亀の首)があり、臼杵湾の奥まで入る船をここで両側から攻撃し、城下への侵入を防ごうとする目的で、的場山に砲台が築かれたと考えられます。
的場山台場には、重房の意見書により五基の砲の配備が計画されていたようです。これらはいずれも直径5~12cmの球形弾を発射する、当時としては中型の砲にあたり、有事の際に据えられる砲台に据えられる持運筒でした。しかしながらいずれも有効射程が100~200mの無炸薬(火薬の入っていない砲弾)のものばかりで、鉄張りだった当時の外国軍艦を破壊できないばかりか、標的にすら弾が届かないような砲であったといわれています。
とはいえ、当時の人々が懸命に時代の波に対処しようとした様子が、今に伝わる海防意見書や海沿いの急峻な山上に築かれた台場の遺跡にしのばれます。そしていつまでも臼杵の海がやさしく、穏やかであることを願わずにいられません。
  • 臼杵市役所臼杵庁舎TEL:0972-63-1111(代表)
  • 臼杵市役所野津庁舎TEL:0974-32-2220(代表)

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