公開日 2019年2月7日
更新日 2019年2月28日
- 地域
- その他
- 名称
- 御霊社(その二)(ごりょうしゃ)
- 所在
- 臼杵市大泊/風成/桑原
- 備考
- 昭和59年10月調べ
- 説明
- (大泊・風成の御霊社)
この二地区の御霊社に祀られている祭神は、姉と弟の関係にあたります。
天文十九年(1550)時の豊後国主第二十代大友義鑑の長子であった義鎮(後の宗麟)の家督相続をめぐり「大友家の二階崩れの変」という事件が起きています。これは、長子義鎮を廃嫡して聡明であった三男塩市丸に家督を継がせようと義鑑が重臣にはかったが、重臣達は義鎮を弁護し、義鑑を諌めました。家督を三男に譲るためには反対者の口を封ずる以外は方法はないと考えた義鑑は四人のうち二人を討ち取りましたが残る二人、津久見美作守と田口石見守にはこの様子を察知され、逆に大友館の二階へ切り込まれて重症を負わされてしまい、この傷がもとで義鑑はなくなりました。その後、津久見・田口の一族が次々と討ち取られていきました。こうした情勢の中で、大泊に逃れていた田口石見守の三男与一郎、風成では姉が捕らえられ刑に処せられました。その死を悼み、村人が社を建て、大泊に与一郎の、風成には姉の霊を祀ったものです。
(佐志生の御霊神社)
桑原地区の東部、標高約20mの台地上に位置しています。この御霊社は、藤原廣嗣の霊を祀っています。廣嗣は、奈良時代の人物で、往時中央政府で実権を握っていた一族を天平九年(737)に流行した疫病で次々と失った翌年、吉備眞備らの反対によって大宰府小弐(正五位上)に退けられました。これを不満として、大宰府で乱を起こしましたが、朝廷が遣わした大将軍大野東人によって鎮められました。藤原廣嗣がなぜ佐志生に祀られる様になったのか不明ですが、彼の死を哀れんだ人々が祀ったものと思われます。