公開日 2019年2月7日
更新日 2019年2月28日
- 地域
- その他
- 名称
- 土器は語る(どきはかたる)
- 所在
- 備考
- 平成4年9月調べ
- 説明
- “裏の畑でポチが鳴く 正直じいさん掘ったなら・・・”という童謡でも知られる「花咲かじいさん」のお話を、皆さんもご存知のことと思います。
正直じいさんがポチの言うとおりの場所を掘ると、大判小判がザクザクと出てくるのですが、敵役の意地悪じいさんが掘るところからは、石や瓦や茶碗のかけらといったゴミばかり、ここで意地悪じいさんはたいそう怒ってしまうのです。ところが時は現代、このような“瓦礫の山”を掘りあてては、たいそう喜ぶ人たちもいます。彼らは遺跡の発掘調査にあたる調査員たちです。
平成四年の七月に古園石仏前庭部で行われた発掘調査の際もやはりそうでした。この調査は古園石仏の保存修理工事で仏像の下部が整備されるため、事前の遺構確認のために行ったものです。
この調査では、古園十三仏の前に一列に並ぶ須弥壇(外界と聖域を区切り、仏像が鎮座する壇)の石積と、中尊の大日如来の裳懸座(懸け布をあしらった台座)が見つかりました。そしてこれらの石がどのように据えられているかを確認するために掘ったサブトレンチ(小さな試掘溝)からは、わずか一坪にも満たない面積ながら、完全な形のものと、それに近い土器がなんと54点も出土したのです。
これらの土器は、土師質土器と呼ばれる素焼きの土器と、黒っぽい色をして、表面がツルツルしている瓦器という土器の2種類です。器の形態は坏(食物を盛ったり、液体を飲むための器)、皿(食物や液体を盛るほか、油を入れて灯りとしても用いる)、仏華器(花びん)3種類があります。
これらの土器は、12世紀中頃のものと、14世紀前半頃のものとの2つに分かれます。これらはいずれも須弥壇や裳懸座を据えるために整地された土の中から出ています。この土の中からは14世紀より新しい遺物が出土していないことから、この土が14世紀前半に敷かれたことがわかります。つまり、須弥壇も裳懸座もこの時期に造られたことがわかるのです。
また、それより古い12世紀中頃の土器も大量に出土したことは、この時期にも何かがあったことを示しています。古園石仏の前庭部には中世に石仏を覆う建物があったことが知られていますが、この礎石の状況から、新旧2時期の建物があったことが判っています。以前の調査と、今回の土器の出土状況から、古い時期の建物は12世紀後半に、新しい方は14世紀前半に造られたことが考えられるのです。また、今回出土した裳懸座や須弥壇も、新しく建物を建てた時にあわせて造られたのでしょう。
古い方の建物は、これまでの調査の成果から、古園石仏が彫られてまもなく建てられたことが考えられています。古い方の建物が12世紀後半代に建てられた可能性が強くなったことは、今まで確証の少なかった石仏の造立年代の問題に一つの手掛かりを与えるものでもあるといえるでしょう。
遺跡の年代を知る手掛かりとなる土器や瓦、一見単なるガラクタのようであっても、歴史の謎に迫るには、黄金以上の価値があるのです。