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中世のサイコロ

公開日 2019年2月7日

更新日 2019年2月28日

 
地域
その他
名称
中世のサイコロ(ちゅうせいのさいころ)
所在
 
備考
平成4年1月調べ
説明
お正月の遊びといえば、凧あげ、独楽回し、羽根つきなどさまざまですが、こたつに入ってみかんでも食べながら双六で遊んだ方も多いと思います。
この双六に欠かせないのがサイコロ(賽子)です。サイコロの歴史は非常に古く、紀元前のエジプトで発明されたといわれています。この時に目(数を表す穴)が、表と裏の数を足しあわせると七になるような配置となったようです。その後、ヨーロッパや中国にも伝わり、日本へは奈良時代前に双六と共に中国からもたらされました。
この当時の双六は、現在良く見かける道中双六のようなものではなく、二個のサイコロを振って出た目の数だけ駒石を進めて相手の陣に早く入った方を勝ちとする盤上ゲームでした。最初は貴族の遊びだったのですが、平安時代の終わりごろから庶民の間にも普及するようになったようです。このため、中世の遺跡を発掘調査すると、しばしばサイコロが出土することがあります。平成3年七月から調査が行われた市内深田の発掘現場(満月寺跡)からも一点出土しています。
このサイコロは土製(素焼き)で、一辺が1.5cmの立方体をしており、出土した様子から中世のものだと考えられます。目は表裏の和が七になるように配置されていますが、この時期のサイコロの中にはその和が七にならないような目の配置をするものも多く見られます。今回出土したサイコロは恐らくきちんとサイコロのしくみを知っている人が作ったものなのでしょう。
中世には、賽磨(さいすり)と呼ばれる、サイコロを専門に作る職人がいました。彼らは双六の普及と共にサイコロを自宅で製作し、それを振り売り(商品を持って売り歩くこと)していたようです。ところが中には「目も消えはつる潰れ賽(目がはっきり読めないサイコロの意味か?)」や、「片付きしたる似非賽(特定の目がいつも出るサイコロ)」といった、いわゆるいかさま用のサイコロを作る者も現れました。(七一番職人歌合絵より)。つまり、この時代には随分と双六が賭け事に使われるようになっていたようなのです。双六の普及の背景には、こうした事情もあったことが考えられます。
賭けに使われていたかどうかは別として、この時代に満月寺の中でも双六が行われていたことが想像されます。現代のように娯楽の多くなかった時代、一日の疲れをいやす楽しみであったのかもしれません。思うがままにならぬサイコロの目に人生の難しさを思う人もあったでしょうし、良い目が出て明日への活力をみなぎらせる人もいたことでしょう。この小さな立方体の奥から、中世人の喜怒哀楽の声が聞こえてくるような思いがします。
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