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天保の改革その二

公開日 2019年2月7日

更新日 2019年2月28日

 
地域
その他
名称
天保の改革その二(てんぽのかいかく)
所在
 
備考
平成5年12月調べ
説明
村瀬庄兵衛をリーダーとして取り組まれた臼杵藩の財政再建事業「天保の改革」は、前回でもお話したとおり、同時代の同様の改革が日本のあちこちで失敗する中、極めてよい成績を修めているのです。
その理由としてはさまざまな要因が考えられますが、その最も大きなものとして、彼の改革案が「量入制出」という簡潔にして明確な目的を持ち、さらにそれを達成するために実行可能な計画と目標を設定していたということが挙げられるでしょう。
例えば庄兵衛は、江戸や大阪で蝋燭がよい値で売れることを知り、臼杵領内でその原料となる櫨の木を植えさせたことがあります。これにあたって庄兵衛は植えた木の本数から採れる実の量を推定し、さらにそれによる収入を算出していたことが、彼の残した雑記帳から知られています。こうした細かなところまでに思慮が及んでいたからこそ、彼の計画は実現可能なものとして受け入れられ、多くの協力を得ることができたのでしょう。
また、この事例からもわかるように、庄兵衛の人柄が周密で思慮深く決断力と実行力に富んだものであったこともも大きな要因といえるでしょう。
天保の改革の中では、二十六万両にも及ぶ膨大な借金の返済という難問が基幹であったわけですがこれには産業の奨励と年貢の増収による収入を増やしてその返済にあてると同時に、「御手段」と呼ばれる貸主との交渉によって古い借金を帳消しにして新しい借分だけを払うという方法が採られました。江戸後期といえば財力のない武士たちは経済力豊かな商人達に対して権威を振るえないという時代であったので、同様の方法を行った他藩ではことごとく失敗に終わっています。ところが庄兵衛の人柄とその精神が実務にあたる部下の藩士たちによく浸透していたためか、貸主の信用を得て、数度にわたって行われた御手段は成功し、大幅な借財整理がなされます。
この貸主との交渉には庄兵衛自ら出向くこともありましたが、その際に貸主の前に千両箱をいくつも並べて、臼杵藩の返済能力をアピールしてから交渉に入るという、芝居を見るような巧妙なことも行っていたそうです。
このパフォーマンスに用いた資金は、藩内で町人達から募った献金が基となっていたといわれています。このように藩内の武士と庶民が一致協力して改革の推進力となったことは他ではあまり例がありません。庄兵衛は藩内での無駄な出費を抑えるために虚礼廃止から着物の色に至る、極端とも言えるほどの倹約令を施行しましたが、これにあたっては支配者階級である武士の生活様式からまず改めさせたのです。殿様も例外ではなく、むしろ率先して庄兵衛の指導を受けていたようです。こうしたことが領民の信頼を得て、藩内に天保の改革の意義をいち早く浸透させることにつながり、多くの協力者を得て成功への道を歩むことになったのでしょう。
そしてただ財政を締めるだけではなく、藩の財務・会計を一つに統括する総役所や、藩政を担う若い藩士を養成する学古館という藩校の建設など、目的の遂行に即したことについては出費を惜しんではいないのです。
こうした努力によって、明治維新を迎えるまでに臼杵藩の借財はほとんど全て整理されたため、臼杵の「天保の改革」は日本史の中でも稀有な藩政改革の成功例として知られることになったのです。
この事例は単に過去の出来事としてではなく、現在社会にこそ通じるものを多く今に訴えかけているようです。もちろん、一世紀半後の私たちの町へも。
  • 臼杵市役所臼杵庁舎TEL:0972-63-1111(代表)
  • 臼杵市役所野津庁舎TEL:0974-32-2220(代表)

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