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臼杵の空襲

公開日 2019年2月7日

更新日 2019年2月28日

 
地域
その他
名称
臼杵の空襲(うすきのくうしゅう)
所在
 
備考
平成6年8月調べ
説明
暑い日が続きます。涼を求めて外に出ると、家々の窓には一家団欒の明かりが楽しげに灯っています。
ごくあたりまえのこの風景が、今から約五十年前にはあたりまえのことではなかったことをご記憶の方も多いと思います。そのころ、夜、家々の窓から明かりが漏れるということは、あってはならないことだったのでした。わずかな光が、空からくる敵の爆撃目標となる恐れがあったからなのです。当時は太平洋戦争の終わりごろ。日本本土も何ら戦場と変わりなかったのです。
現在では繁華なにぎわいをみせる日本の都市の大部分は、昭和二十年八月十五日の終戦までに、アメリカ軍の空襲によって大きな打撃を受けていました。中には原子爆弾を落とされた広島・長崎、あるいは連日のように空襲を受けた東京など、壊滅的な被害を出した町もまた、少なくありません。大分県下の各都市も例外でなく、昭和二十年(1945)三月十八日から終戦まで二百五十回もの襲撃を受けています。
私たちの臼杵市にも、このころから時折艦載機(航空母艦から発進する小型の海軍機)が機銃掃射を加えることがあったようです。しかし、となりの大分市のように大型爆撃機による本格的な爆撃はいまだ受けていませんでした。
ところが同年七月二日午前二時ごろのことです。深夜の臼杵の空が突然、真昼のように明るくなると、門前地区や平清水の土橋周辺の家屋が燃え始めたのです。まぎれもなく、焼夷弾(黄リンや油脂などを原料にした、建物や樹木を燃やす目的で作られた爆弾)による空襲でした。焼夷弾は、門前地区から土橋を結ぶ直線上に落とされていたのです。これによって二十五軒前後の家屋が全焼したといわれています。
特に大きな軍需工場も軍の基地もない臼杵が、なぜ攻撃目標にされたかは今もってよくわかっていません。一説によると、家野台地に建設中であった海軍の飛行場と、温井と清太郎を結ぶ直線道路(現・国道五〇二号線)をまちがえたためともいわれていますが、飛行場を破壊する通常の爆弾ではなく家屋を焼き払う焼夷弾が使われていることから、目標は当初から町であったとも考えられます。
いずれにせよ、土橋地区の被害は大きく、鉄道のガード下から青野臼杵堂のあたりまで製材所だけを残して全焼したと記録されています。これがもし、市街地の中心部の家屋が密集している場所であれば被害がさらに大きくなっていたことは想像に難くありません。
人命はもとより、それぞれの財産や先人の残してくれた貴重な文化遺産を、戦火はまたたく間に灰にしてしまいます。臼杵の祖先から受け継がれた町並みや数々の文化財、そこでいつもと変わらない生活を送る人々に接するとき、そして今、私たちを取りまく世界の動きを思うとき、あたり前の事をあたり前に保ち続けることの大切さと難しさを、切に感じます。
  • 臼杵市役所臼杵庁舎TEL:0972-63-1111(代表)
  • 臼杵市役所野津庁舎TEL:0974-32-2220(代表)

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