公開日 2019年2月7日
更新日 2019年2月28日
- 地域
- その他
- 名称
- 大友宗麟(おおともそうりん)
- 所在
- 備考
- 昭和60年7月調べ
- 説明
- 臼杵のまちの誕生を考える場合決して忘れることのできない人物の一人に大友宗麟がいます。
永禄五年(1562)臼杵湾に浮かぶ天然の要害とも言える丹生島に城を築き、府内の館から移り住んだことにより城下に町が形成されました。これが今日、臼杵のまちの礎となったものです。
宗麟の人物評価は、そのよしあしは別として様々ですが、海外貿易の振興をはかり、外国の風土、学問、宗教、文化に興味を示して積極的に吸収し、理解に努めたということは、当時、すでに国際人としての感覚を身に備えていたと見ることができます。その証拠に日本国の統治者となった織田信長、豊臣秀吉よりも豊後国の国主にすぎなかった宗麟の名がヨーロッパにおいて有名であるという事実がそのことを如実に物語っているのではないでしょうか。このことは多分に、宗麟がキリシタン大名であったということが影響しているかもしれません。若き日の義鎮(宗麟)は家督を継ぐや自由で活気に満ちた時代を築き、海外貿易によって得た富と優秀な家臣団を従え九州全土へ勢力を広げていきました。永禄三年(1560)には九州六カ国(豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後)の守護職と九州探題についています。晩年になると宗麟のキリスト教に対する熱意は前にも増して高まり、天正六年(1578)7月25日、臼杵の教会において洗礼を受け、フランシスコと命名されています。
この後、日向国の務志賀(むしか・現、延岡市)にキリスト教の理想郷を設置するため出陣しましたが、耳川の合戦に失敗してからは急速に国力を弱め、失意のうちに生涯を終えています。まさに波乱万丈の一生を送った名将といえます。